リビングの片隅、帰宅してくつろいだ姉がため息を零して、
僕は振り返った。
珍しいと、思う。
彼女は普段、自分の疲れを人に見せることを好かない。
「めーちゃん?」
「…ん?」
呼びかけると返事にタイムラグ、相当疲れているんだとそこからもわかる。
「今日は……収録、難しかったの?」
「…あぁ。うん。ふふ、そうね…難しい曲、だったわ」
そういう君の笑顔にわずかな苦味が混じって、僕は小さな勝利を確信した。
隠しきれなかったのが悔しいのだろうけど、
僕に言わせれば、隠せると思うほうが甘い。
僕が普段どれほど彼女を気にしているのか、気づかない限りメイコに勝利はないのだ。
(…ま、別に勝負じゃないんだけどね)
それにきっと気のせいじゃなく、彼女は僕の前でこそ一番油断している。
もしも此処に僕以外の弟妹がいたなら、メイコはため息ひとつにしても、
封じ込めてみせただろう。
だから気づかせてもらえる者の特権として、僕は彼女を気遣うのだ。
「めーちゃん、疲れてるんじゃない」
「そんなこと。好きなことしていて、疲れるもなにも無いわ」
「まさか。好きなコトだって、幸せなコトだって、疲れるときは疲れるよ?」
首を傾けて微笑んでみせれば、メイコは小さく瞬きして。
「…そうかしら」
「そうだよ。…少し早いけど、もう寝る?」
「うぅん。今日は夜、リンたちとゲームの約束しているの」
「ゲーム?」
そう、と微笑んで彼女が説明を始める。
どうやらレンとリンでは実力に差がありすぎるらしく、
業を煮やしたリンに、対戦をお願いされたのだという。
確かにメイコはあまりゲームの類が得意ではなく、大抵の対戦において
リンと良い勝負を繰り広げていた。
ちなみに我が家では、レン、ミク、僕の順に強いので、
今のところリンが心底勝負を楽しめる相手は、この長姉1人ということになる。
「疲れてるときぐらい、断ってもいいんじゃない。リンはそういうこと、理解してくれるよ」
「あたし、リンと遊ぶの好きよ。あたしが、楽しみにしてたの」
「めーちゃん、いつもそれだもんなぁ…」
メイコはいつだって、より良く在ろうとする。
どんなときにも、自分は幸せだという認識を崩さない。
だからこそ彼女に愚痴はなく、耐えることを我慢だとは言わない。
…つまり結局、メイコは自分を許さないのだ。
その姿はきっと弟妹から見ても崇高で、だからうちの弟妹達はみんなメイコを尊敬してる。
うん、そういう“しっかりしたお姉さん”って姿はね、
僕だって勿論、嫌いじゃないんだけど。
(よし。…決めた)
「めー、ちゃん」
ゆっくりと呼んで、ソファーの端。
彼女から少し距離を置いた場所へと腰を下ろした僕に、
メイコは不思議そう。
視線を合わせて首を傾げるから、僕は笑って直ぐに答えを提示した。
「膝枕。してあげる」
「…………い?」
一瞬固まった彼女は、続いて呆れたように僕を睨んだ。
「そんなこと。出来るわけないでしょー」
言いながらもその頬が赤味を増していて、なんだか酷くくすぐったい気分になった。
別にさ、下心からってわけじゃないんだし。それくらい良いと思うんだけどな。
「いいじゃん。めーちゃんはさ、少し休むべきだよ。
でも本格的に寝たくはないんでしょ?それならここで少しだけ、寝なよ。ほら枕まくら」
膝をぽんぽんと叩くと、めーちゃんがますます紅くなる。
「やーよ。恥ずかしいじゃない」
「誰も見てないよ」
調子に乗って手を伸ばすと、届きそうな手前で彼女の指が邪魔をする。
指と指が一瞬絡んで、直ぐに解けて。
「やだってば」
離れた彼女の手のひらが今度は僕の腕を押すから、
位置をずらしてそれを避け、彼女を今度こそ捕まえて。
ゆっくりと細い指に、僕のそれを絡めた。
「ひどいなぁ。僕、本気なのに」
「カイトったら。まったくもう…ふふ、もう、ほんと……っ」
くつくつと笑い始めた彼女は、笑いすぎてやがて瞼の端に少しだけ涙。
ひとしきり笑いの波に気持ちを委ねる彼女を、手はそのままに僕は待っていた。
やがてメイコが深呼吸して、息を整えて。
それから柔かい、微笑み。
「膝枕なんて無理よ。
…でも…そうね、ちょっとだけ…甘えちゃお、かな」
するりと猫のように近寄った彼女は、あっという間に僕の隣に移動して。
栗色の髪をさらりと揺らし、そして、
(わ……)
肩に、心地よい重み。
わぁぁ。めーちゃんが今、僕にもたれてる。
(緊張、してきた…)
膝枕まで提案しておいて、何言ってるんだって思うかな。
だけどこんなにも、君との距離が近い。
「…肩って、枕には硬くない…?」
「そんなことないわよ…。ん…声が近くて、なんか、不思議…」
「くすぐったいよ」
「我慢しなさい。もうちょっと、だけ…」
そうして瞳を閉じた彼女の息が、少しずつ穏やかになる。
やがて聞こえ始めた寝息、それは勿論疲労のためだったのだろうけど、
なんだか心許されているように感じて。
僕は逆側の手をそうっと伸ばすと、眠る彼女の髪を梳いた。
さらり、さらり。
緩やかに夢を漂う、僕のお姫様。
(では…騎士としての任務を果たすとしましょうか)
最優先事項は、固まって動かないこと。
簡単そうに見えるけど、結構難易度は高いと思うんだよね。
それでも勿論、僕はその役目を果たすだろう。
だって彼女を許してあげられるのは、僕1人なんだから。
結局のところ、彼女が作り出す幻想を看破するのが自分だけだって事実は、
僕にとってはこの上もなく、都合がいいことなんだ。